クラブの歴史

古賀ゴルフ・クラブの前身

当クラブ誕生の歴史と人脈を遡れば、大正15年5月9日、9ホールでスタートした福岡県で最初のゴルフ場「大保ゴルフ場」(小郡市近郊)に辿り着くことになる。当時大保ゴルフ場は、九州では雲仙ゴルフ場についで古く、福博の財界人たちに愛された。昭和15年9月16日にはゴルフ競技会最高峰のイベント日本プロゴルフ選手権が同ゴルフ場にて開催され、同ゴルフ場で育った藤井武人プロが新進気鋭の戸田藤一郎プロと接戦の末、惜敗した。その後も福博財界人に愛され続けた大保ゴルフ場は、昭和19年の春、陸軍による接収を受け、敗戦と共にその栄光の歴史に幕を下ろした。

戦後の昭和22年暮れ、西日本鉄道(株)副社長木村重吉氏から“福岡県古賀に西鉄の土地が約7万坪あるが、ここに新しいゴルフ場を造らないか”との計画が持ち上がった。初代理事長として当クラブの礎を築いた木曽重義氏などが中心となり、玄界灘に面した古賀海浜の穏やかな砂丘に福博のゴルファー達が参集した。 昭和23年、資金や物資も不足する中、現在のインコースに当る場所に、芝はグリーンだけ、ホールにはブリキ缶を埋めたコースを造り、ここにサンドコース“古賀”が9ホールにてスタートすることとなった。

昭和15年 大保ゴルフ場で開催された
日本プロゴルフ選手権
赤土の土俵グリーンと砂に埋もれたコース

古賀ゴルフ・クラブの誕生

本格的なゴルフ場を作りたいとの情熱に燃える初代支配人平野博三氏等が木曽重義理事長を動かし、大規模な客土による芝張り改造の可能性を検討した。昭和27年暮れから川奈富士コースの改造を指導した丸毛信勝農学博士を二度にわたり招いたが、博士の「浜伊豆が一帯に生えているならば、この砂地にも芝はつく。」との言葉を得て、昭和28年に本格的な芝張り工事が始まった。赤土の客土は古賀町花見地区のひと山ぶんにもなったと伝えられている。 昭和28年10月11日秋晴れの中、当クラブが9ホールにてオープンすることとなった。この年から当クラブの正式な歴史が刻まれていくことになる。
昭和29年5月には日本ゴルフ協会と関西ゴルフ連盟に加盟して、わが国のゴルフ界に正式に登録された。

当時のバンガロー式ハウスと9番グリーン

上田治氏の監修による本格的なゴルフ場へ

昭和31年、18ホールへ改造するためコース設計の権威・上田治氏にコースの設計を依頼した。当クラブは、九州では上田氏の戦後最初の作品である。地元古賀町、新宮町、米軍関係などのさまざまな人々の協力により、昭和32年9月には新クラブハウスが落成、昭和32年12月には遂に全18ホールの工事が完成した。ここに玄海灘に面する白砂青松の地に魅力あるリンクスコースが誕生した。

上田 治氏
昭和32年 18ホール完成当時
昭和36年 日本プロゴルフ選手権

昭和36年には日本プロゴルフ選手権競技が開催され、林由郎プロ(我孫子GC)が優勝した。 その林プロは当クラブを次のように評価した。「例えば1番ホールですが、セカンドを7番で打ったかと思うと、翌日はスプーンで打っても届かないという具合に、こう変化するホールは初めてです。実にクラブの選択が難しい。随分と広いコースだと思ったのですが、やっているうちに段々と狭くなってきた。」
また、この時期当クラブ所属の島村祐正プロが、関西プロ選手権3連覇(昭和28、29、30年)の偉業を成し遂げた。島村プロは日本オープン選手権においても2度にわたり2位(1回はプレーオフにて優勝を逃す)となる等、赫々たる戦果を残されたが、当クラブにはもう一人輝かしい戦果を残した野見山博氏がいる。クラブチャンピオン21回、九州アマ優勝2回、日本シニアアマ優勝3回等、まさに九州、日本を代表するトップアマとして長く君臨した。お二人は、上田氏の設計したコースのすばらしさと厳しさを最も良く知る名プレーヤーである。

高麗からベントへのグリーン改修と、
九州初の日本オープン開催

創立以来、時間の経過と共に自然の力や人為的な損傷を受けた箇所の補修を繰り返す中で、上田治氏の原設計図と比べてみると、コースにはかなりの変形が見られるようになった。そこで平成6年10月、時代に先駆けたコースとして新生させるため改修に着手した。 改修の設計・監修は、故上田治氏の愛弟子である鈴木正一氏に依頼した。グリーンの床構造をサンド化し、レギュラーグリーンを高麗からベントに替えて、全面ベントグリーンとした。また、グリーン周辺も整備して戦略性を高めると共に、全自動スプリンクラーシステムも導入した。約2年間にわたった改修工事は平成8年9月にすべて完了した。
平成9年10月2日〜10月5日には九州初の第62回日本オープンゴルフ選手権競技が開催された。オーストラリアのクレイグ・パリーが奥田靖己プロ、尾崎将司プロ等を逆転して優勝をかざった。スコアは2オーバーパーであった。ちなみに優勝スコアがオーバーパーになったのは平成3年以来6年ぶりのことであり、古賀の難コースぶりを物語る結果となった。ローアマチュアには16オーバーパーで星野英正氏(東北福祉大2年)が選ばれた。

1997年 第62回日本オープン
優勝者 :クレイグ・パリー
ローアマチュア:星野 英正

コースの改修に伴い、ティグランドを増設

先の改修から約10年を経て、夏場にグリーンが病気と発育不良でダメージを受ける事態が生じた。これを機に、今後の地球温暖化も考慮して、設計・監修を谷平考氏へ依頼し、レギュラーグリーンについて床構造をUSGA方式へ、また、前回の改修では行わなかった排水系統の全面的な改修を決断した。 平成17年12月に工事も終わり、平成18年1月より供用を開始した。バンカー等のグリーン周りやグリーンのアンジュレーションも以前に較べてより戦略的となり、ホールアウトするまで気の抜けないコースとなった。
シニアや女性をはじめ、より多くの方々に楽しんでいただけるようにティーマークをバック(黒)、レギュラー(青)、フロント1(白)、フロント2兼レディース1(黄)、レディース2(赤)の5箇所とした。それぞれにJGA公認のコースレーティングが認定されている。

改修前の15番グリーン
改修後の15番グリーン

平成20年10月 第73回日本オープン開催

平成20年10月16日〜10月19日には2度目となる第73回日本オープンゴルフ選手権競技が開催された。 競技結果は、片山 晋呉プロが唯一の1アンダーパーで逃げ切り、日本オープン3年ぶりの優勝で通算25勝、史上7人目の永久シード権を獲得した記念すべき大会となった。また、当年プロデビューした17歳の石川遼プロが3オーバーパーで単独2位に食い込む健闘を見せた。ローアマチュアは、ただ一人決勝ラウンドに進出した大田和桂介氏(日大2年)であった。

平成20年 第73回日本オープン
優勝者:片山 晋呉
ローアマチュア:大田和 桂介

バミューダグリーンへの改修

平成23年8月よりバミューダグリーンの使用を開始した。当クラブは平成8年よりベントの2グリーンとなったが、コースの維持管理に要する経費の削減と通年良好な状態のグリーンを提供するために、Bグリーンをバミューダグリーンに改修した。 この度採用したウルトラドワーフバミューダ芝(ミニバーディ)は、夏芝であるため酷暑においても状態悪化の心配が無いばかりか、ベントグリーンにも劣らないパッティングクオリティーを形成する。
本芝種は、アメリカのPGAツアートーナメントコースにおいても採用されており、数年間当クラブで試験栽培、実用実験を実施し、わが国で初めて18ホールの全面採用に踏み切った。

酷暑にも強いバミューダグリーン

クラブハウスの竣工

平成27年3月に竣工した新クラブハウスは、旧クラブハウスの外観イメージを残しながらシーサイドのコースにふさわしい自然の景観と融合したデザインとなった。
また、時代の変化にともない太陽光を利用したシステム、雨水ろ過装置、電気とお湯を同時につくるガスコージェネレーションの利用等、省エネ・エコロジー対策にも力を入れた。

新クラブハウスの外観

令和元年10月 第84回日本オープン開催

令和元年10月17日~20日には3度目となる第84回日本オープン選手権競技が開催された。最終日は、第3ラウンドまで首位をキープしていた塩見選手が後半15番、17番でトリプルボギー。通算5オーバーで、10位タイでホールアウトした。優勝は最終ラウンド8バーディ(4ボギー)で通算1オーバーを記録したチャン・キム選手。8打差からの大逆転優勝であった。ローアマチュア優勝はJ・トンプソン選手、石坂友宏選手、桂川有人選手。

第84回 日本オープン選手権
桂川有人選手 チャン・キム選手 石坂友宏選手 J・トンプソン選手